》今日の及国がこたつに入るまでの話




「うへぇぇ!指千切れるう!」

 真っ赤になった無防備な指先をこねくり回し、及川さんが嘆いた。もし千切れるなら、こねくり回した拍子だろうなぁと思わずにはいられない。
 ここ数日の全国的な寒波は、仙台にも訪れていた。今期一の寒さと言っていいだろう。そんな寒い日にも関わらず、及川さんは手袋を教室に忘れてきたらしい。けれど、取りに戻りますかと聞けば、早く帰りたいからいいと言うのだから、千切れたところで自業自得だ。だけど。

「ちめたい〜」

 どうにもダメだった。やり口があからさまで誘導していると分かってはいるが、少なくとも真っ赤な指先の痛々しさはホンモノなのだ。
 寒い日の信号待ちほど、変わるまでの時間を長く感じる事も少ない。足を止めた及川さんは、冷たい手を自身の冷たい頬に宛がった。そうしてさすさすと擦り寄せる。
 忙しない手に、無言で手を伸ばした。かじかむ手ごと頬を包むと、及川さんは目を丸くして、それからゆるく顔を綻ばせた。
 きっとこの人の思い通りだ。違うか。思い通りならばいいなと思った。

「うわ、冷たい……」
「つめたいってゆったじゃん〜」

 その手は手袋越しでも分かるほど冷えきっていた。暖めるよう撫で回すと、端整な顔はいっそう嬉しそうに笑み崩れる。なんだか撫で回す間、えへえへとだらしなく笑うその頭に犬の耳、尻にしっぽが見えたような気がした。

「んふふ」

 犬ならわふわふ言ってるんだろうなぁ。存在しないしっぽは、千切れるほど振られているだろう。指より先に千切れるのはこっちかも。
 信号が青になったのを見て手を離すと、在りもしない耳は項垂れているのではないかと思うほど、しょんぼりと眉尻を下げられた。
 多少なり温めた手は、コートのポケットに収まっていく。こんな雪道で自殺行為だと思うのだが、さすがに転ける時は手を出して、俺を巻き込むなりなんなりするだろうと、足を進めた。通学路の雪はすっかり踏み固められていて、今にも滑りそうだった。

「ねぇ。国見ちゃん今日、マフラーに髪の毛乗っててボブみたいになってる」
「……え。変ですか」
「んーん、可愛いよ。なんかねぇ、のっちみたい」
「……Perfumeの?」
「Perfumeの」
「俺かしゆかの方が好きです」
「国見ちゃんはかしゆかって顔だよね」
「……そんな顔あるんですか」
「あるんだな〜。Perfume聴いててかしゆか好きそうって顔が。もし黒縁メガネ掛けてたら一秒で確信したね」
「フッ、なんですかそれ」
「ウチの姉ちゃんが言ってたんだけどね、そのタイプは恋愛フラグ立たせると決まってメガネコンタクトにして髪の毛ばっさり切ってくるらしいよ」
「うそだー」
「ホントホント」
「それ及川さんのお姉さんが美人だからじゃないんですか?」
「えっ国見ちゃん姉ちゃんのコトそういう風に思ってたの!?浮気!」
「なに言っているんですか。普通に美人だなーくらいは思うでしょ」
「は〜分かった、それで国見ちゃん姉ちゃんに撫で回されると嬉しそうにするんだ、ふーん。ふぅ〜ん」
「なんですか」
「この年上好きめ」
「それは否定できませんけどね」
「はは。ちなみに俺のっち〜」
「へぇ〜」
「でものっちより、国見ちゃんが好き〜」

 Perfumeに俺は居ませんけどね。と言いかけた時、軽快な音楽が流れ出した。途切れないそれは、及川さんの電話の着信音だ。
 あっ俺だ。と言って及川さんは、くるりと回り、こちらへ鞄を向けた。

 「ケータイ取って」

 余りも寒さに震える声を出すものだから、仕方なしにスクバのポケットを開ける。携帯を取り出すと、誰?と聞かれて、暗い画面に触れた。光った画面を見ると「岩ちゃん」と表示されていた。

「あ、岩泉さんですよ」
「岩ちゃん?出て出て」
「ハイ」

 ずいっと耳を差し出されたから、通話にして、その耳に宛がった。もしもし〜と言う間延びした声を聞きながら、なんで俺が携帯宛がってやってんのと思う。けれど、及川さんの手はコートから出てくる気配がない。
 ポケットを眺めていると、雪の積もったイチョウの木が風で揺れて、ぼたりと及川さんの肩へ大きな白い塊が落ちた。びくっと揺れた肩の雪を払うと、目が合う。及川さんは、ありがと。と小さく言って、なんでもないよ。と携帯に喋りかけた。

「あー部屋にあるよ。持ってっていいよー」
『や、今お前の部屋に居んだけどよ。どこにあんだよ』
「その辺にない?うそー、俺昨日読んだよ」

 俺を見たまま、猛来たのかなぁと困り顔をされると、なんだか俺が困らせてるみたいな、妙な気持ちになった。

「なんかあったんですか?」
「んーなんかね、岩ちゃん今俺の部屋に居るらしいんだけど、先週のジャンプ見当たらないんだって」

 あぁ、と思った。岩泉さんのジャンプは、部内で回し読みされるのだ。その順番はバラバラで、先週分は及川さんが最後だったのだろう。そして月曜日の今日、最新話を読む前にもう一度読み返そうという事なんだと思う。ねーよと言う岩泉さんのぶっきらぼうな声が、俺にも聞こえてきた。

「……今日布団上げました?」
「布団?うん、上げたよ」
「じゃあ、その中かも」

 及川さんは不思議そうにぱちぱちと瞬きをして、それから、布団まくってみて。と岩泉さんに言った。そのあと、通話は直ぐに切れた。

「すごい、国見ちゃんよく分かったね!」
「及川さん寝る前に読んだりするじゃないですか」
「え!?なんで知ってるの!?」
「なんでって……前に及川さん家泊まった時、俺に読み聴かせたでしょ。その時に自分で話してましたよ」

 及川さんのお母さんが敷いてくれた客用の布団を無視して、同じ布団に入っていたその夜。枕元に置かれた電気スタンドの明かりの中、俺を後ろから抱き込みながら、この人はジャンプを捲ったのだ。そしておもむろに、殺せんせーのセリフを甲高い芝居がかった口調で読み始めたのだから、おかしかった。及川さんがジャンプを読んで居る時に俺や金田一が覗き込むと、高確率で朗読されるのを知っていたのに、それでも笑ってしまったのだ。
 吹き出した俺に気をよくした及川さんは、更にぶりっこな声で渚を、聞いた事もないような渋い声で烏間先生をやり始めて、なんだ試合中や最中以外でもかっこいい声が出せるんだなと思ったのも、まだ記憶に新しい。

「あったねぇ。国見ちゃんのビッチ先生可愛かったな〜」
「及川さんの殺せんせーの方が面白かったですけどね。ヌルフフフゥ〜って、」
「ブッフ!ちょっ、なに今の、俺そんな声だった!?」
「こんな声でしたよ。にゅやッ!?って」
「ぶくっ、やめて笑っちゃうから!どっから出てるのその声〜っ」
「ノドから出てますよ、ほら」
「待って待って、歩けない、俺歩けないよ」

 笑ったせいで覚束ない足取りになった及川さんの、コートから出てきた手が俺のコートを掴んだ。

「うわっ、ちょっ、危な!わ、」
「わわわっ!ぁあっ!」

 前のめりに寄りかかって来た肩を支え、足に全神経をやった。なんとか踏み留まってホッと息を吐くと、及川さんも安心したのだろう。へらり笑った身体から力が抜けて、ふいに重心がぶれたその足が滑った。

「いっ……!」
「うぶッ」

 及川さんを抱え込むようにしながら、俺は後ろにあった雪へ尻餅をついた。ざくっという表面の氷が潰れる音を聞きながら、あーあと思った。なんだか今日は、こうなるような気がしていた。植え込みとか、ぐちゃぐちゃに溶けた雪の上じゃなくてよかった。

「ごめん国見ちゃん……!痛くなかった!?怪我してない!?」
「大丈夫ですけど、尻が冷たいです」

 差し伸べてくる手を取る。立ち上がると、雪にくっきりと綺麗についた尻餅の跡に、申し訳なさそうな顔をしていた筈の及川さんが失笑した。俺がつられて笑うと、写真まで撮ると言う。コートに付いた雪を払いながら、冷たい尻は、あとで押し付けてやろうと決めた。

「国見ちゃんのお尻スタンプ可愛い〜」
「……誰にも送らないで下さいよ」
「ウン。ていうか送れないし」

 真っ赤な指先をぐっぱして、あ〜千切れると唸った及川さんは、携帯を鞄に滑り込ませた。それから、ウウンとわざとらしく咳払いをする。

「さて国見ちゃん。及川さんとおてて繋ぎますか?こちら本日は大変よく冷えておりますけれども」
「辞退させて頂きます」
「えっ繋ぎたかったんじゃないの!さっき俺の手ジッと見てたでしょ……!?電話してる時!」
「あれは……、そんなに寒いのかなって思ってただけです」

 出てきたら携帯渡そうとも思っていたけど。
 及川さんはちぇっと言って赤い手を擦り合わせると、はあと息を吐きかけた。白い息は直ぐに冬の空気と混じっていく。

「手、繋ぐと、また転びますから、」
「……そうだね」

 だから信号待ちの間、さするだけだ。

「なにあれ〜」
「ホモじゃん?」

 きゃらきゃら笑う女子高生の声が、後ろを通りすぎる。及川さんはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。

「ねぇねぇ。この辺ホモが居るんだって〜」
「大変ですね。雪の上に押し倒される前に帰らないと」
「押し倒したんじゃないよ!?」
「違うんですか?」
「違いますぅー。国見ちゃんに怪我させかねないような事、及川さんがわざとするワケないでしょ!」

 ていうか帰らないよね?俺ん家に寄るよね?続いたその言葉に、ちょっと驚いた。これから向かう先に、及川さん家以外の選択肢を考えてなかった自分に。

 朝はあんなに忌々しく感じた雪を踏む音が、なんだか小気味よかった。転ばないように足跡がないところを選びながら着いた及川家には、鍵がかかっていた。お邪魔しますと靴を揃えた玄関には、岩泉さんの靴もなかった。少し残念だ。

「トイレ借りますね」
「はーい。俺向こう行ってるから」

 向こう、は茶の間だろうなと、トイレから出てるとそのふすまを開けた。
 そうして俺は思わず噴き出してしまった。こたつに頭から下をすっぽり収めた及川さんは、それに気付いてこちらへ顔を向ける。

「ちょ、なにしているんですか」
「だって寒いんだもん〜、国見ちゃんも早くこっちおいで」

 催促するようぽんぽん叩かれた隣に腰をおろして、こたつに足を入れた。まだ温い暖かさに、それでもどこかホッとする。

「あのね、母ちゃん岩ちゃんが帰ったから買い物行ったって」
「そうなんですか」
「でね、今日お鍋なんだけど国見ちゃん食べてくよね?」

 にょきっと出てきた手が、こたつに置かれた紙をとんとん指差す。手に取ると、いかにもお母さんの字という綺麗な字で、「母は買い物に行ってきます。さっきまでハジメちゃんが来てましたよ。母が帰るまでアキラちゃんは帰さないで下さい。今日はお鍋です。」と書かれていた。

「……俺が来るって言ってたんですか?」
「言ってないよ?岩ちゃんかな」
「いつもご馳走になっていて悪いんですけど」
「いいんだよ〜。国見ちゃんが居る方が美味しいの出てくるしね。……えいっ」
「ヒャッ!?」

 突然、わき腹にヒヤッとしたものが触れて、身体がふるえた。冷たいそれは俺の腹を這って上がってくる。

「ひっ、ちょっと及川さん!」
「ひゃあだって、んふふ」

 その手を引っこ抜くと、案外簡単に諦めてくれたようだった。長い腕は直ぐに腰に絡まり、俺をこたつに引き込もうとする。
 チャンスだ。油断させるためにわざとらしく溜め息を吐いて、横になった。後ろからくっついてくる及川さんに尻を当てるなら、今しかない。尻を後ろにやると、彼は悲鳴を上げた。

「ぎゃ!つめたい!」
「だから言ったじゃないですか」
「ごめんごめん、俺があっためてあげるからね」

 そういう意味じゃなかったんだけど。まぁいいか。

「ジャンプ読みたくなっちゃった」
「岩泉さん家行ってきますか?一分でしょう」
「え〜さむい〜出たくない〜」

 懲りずに抱いてくる及川さんをちらり見た。うなじの辺りに擦りつかれてくすぐったい。その錆色の癖毛の中に、なんだかまた耳が見えた気がして面白かった。多分さっきよりわふわふいっている。
 すっかり千切れる心配もなくなった体温をなぞりながら思う。やっぱり冬はこたつだな。


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